10月第2週のメッセージ|礼拝

礼拝(要約)

「そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」 

ルカの福音書24章32節

 

2026年10月11日
『心が燃えていた』
ルカの福音書24章13〜35節

 

私たちの毎日の歩みには、その時には分からなくても、あとになって振り返った時に、「あの時、主がともにいてくださった」「あの時、主が語ってくださっていた」と気づかされることがあります。

ルカの福音書24章には、イエス様がよみがえられた日の出来事が記されています。二人の弟子はエルサレムを離れ、エマオという村へ向かっていました。彼らは、墓が空だったことや「イエスは生きておられる」という知らせを聞いていました。しかし、これまで望みをかけていたイエス様が十字架で死なれたことで、すべてが終わってしまったように思えていました。復活の知らせは聞いていても、「主は本当に生きておられる」ということが、まだ自分たちの現実にはなっていなかったのです。

① 主がともに歩いてくださる

二人が道を歩きながら話し合っていると、イエス様ご自身が近づき、ともに歩いてくださいました。しかし、二人にはそれがイエス様だとは分かりませんでした。

私たちも同じように、主がともにおられるのに気づかないことがあります。順調に歩んでいる時も、思うように前へ進めない時も、立ち止まってしまうような時もあります。それでも、生きておられる主は私たちに近づき、ともに歩いてくださいます。

今日ここまでの歩みを思い返してみても、朝起きて、食事をし、支度をして、それぞれの場所へ向かう、その一つ一つの歩みの中に主はともにいてくださいます。私たちが気づいていない時にも、主は一人ひとりの歩調に合わせて歩いてくださるのです。

② 主が語ってくださる

イエス様は、すぐにご自分の姿を明らかにされたのではありません。まず聖書を説き明かし、二人には分からなかった十字架の意味を示してくださいました。キリストが苦しみを受け、栄光に入られること、十字架も神の救いの御計画の中にあったことを語られたのです。

生きておられる主は、今も御言葉を通して私たちに語ってくださいます。そして、そのことにあとになって気づかされることがあります。

このメッセージを備える少し前の水曜日、祈祷会でエレミヤ書15章16節から「御言葉をいただく」ことを語りました。その時はエマオの箇所につなげるつもりはありませんでした。しかし、祈祷会を終えて振り返ると、語っていた御言葉が自分自身へのことばとなり、私自身の心も燃えていたことに気づきました。「ああ、主が私にも語ってくださっていた」と、あとになって受け取ったのです。

エマオの二人も後になって、「私たちの心はうちに燃えていたではないか」と振り返りました。その時には分からなくても、生きておられる主はすでに語ってくださっていたのです。生きておられる主が御言葉を通して語ってくださるとき、私たちの心は燃やされます。

③ 主は生きておられる

二人が食卓に着くと、イエス様はパンを取り、祝福し、裂いて彼らに与えられました。その時、二人の目が開かれ、目の前にいる方がイエス様だと分かりました。

最後の晩餐でパンを裂き、ご自身を与えられた主が、十字架で死なれ、そして復活して、今また二人の前でパンを裂いておられる。十字架で死なれたイエス様が、今、生きて、ここにおられる。死んでしまったと思っていた主は、復活して、今も生きておられるのです。

そのことを知った二人は、夕刻になっていたにもかかわらず、すぐさま立ち上がってエルサレムへ戻りました。そして、自分たちが出会った、生きておられる主のことを語り、「主は生きておられる」と証しする者となりました。失望の中でエマオへ向かっていた二人の歩みは、復活の主との出会いによって大きく変えられました。

生きておられる主を知ると、歩みが変わります。

主は、生きておられます。
その主は今日も私たちに近づき、ともに歩み、御言葉を通して語ってくださいます。私たちが気づいていない時にも、主はすでにともにおられ、語りかけてくださっています。

そしてこれから、私たちは聖餐の食卓を囲みます。
私たちが食卓を整えますが、この食卓の主人は、十字架でご自身を与え、復活して今も生きておられる主イエス様です。

その生きておられる主を、もう一度心に受け取りながら、この後、聖餐の時へと進みたいと思います。

私たち一人ひとりが、日々の歩みの中で、生きておられる主を知り、御言葉に心を開き、「主は生きておられる」と喜びをもって歩むことができますように。

国府津キリスト教会 牧師 清水良高

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