7月第4週のメッセージ|礼拝

2026年7月26日『御霊が助けてくださる』
ローマ⼈への⼿紙 8 章 26〜28 節

暑い⽇が続いています。教会には、私が「セコムの⿊猫」と呼んでいる⿊猫が、朝九時ごろになると⽞関前に姿を⾒せます。猫が来ると、セコムが反応するからです。この暑さの中でも、変わらずやって来ます。

何をしに来ているのか、何を思っているのか、私には分かりません。その姿を⾒ながら、私たちにも、⼼にある思いをうまく⾔葉にできない時があることを思いました。

それは、⼈に話す時だけではありません。主に祈ろうとする時にも、⼼にあることをどう⾔葉にしたらよいのか分からない時があります。⼤きな悲しみの中にある時や、⼼配が重なった時には、何を願えばよいのか分からず、ただため息をつくことしかできないこともあります。しかし、今⽇の御⾔葉は語ります。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。」これは、読むだけでも⼼が慰められる御⾔葉です。

① 何を祈ればよいか分からない私たち

前の 18 節から 25 節では、今は苦しみの中にあっても、やがて神が救いを完成してくださる、その⽇を待ち望むことが語られています。けれども、待ち望んでいる間にも、先が⾒えず、不安になることがあります。何を願えばよいのか、何を祈ることが神の御⼼にかなうのか、分からなくなることもあります。

ここで語られる「弱さ」は、病気や体⼒の衰えだけではありません。何を祈ったらよいのか分からず、⾔葉が出てこない。そうした、祈る時に経験する弱さも含まれています。パウロも「私たちは」と、⾃分をその中に⼊れて語っています。信仰者であっても、祈りの⾔葉が出てこない時があるのです。

私も⻑い間、⺟教会の早天祈祷会に通っていましたが、何を祈ればよいか分からず、ほとんど⾔葉が出てこない朝がたくさんありました。それでも、ただ主の前に座っていると、不思議と⼼が落ち着き、そこから会社へ向かうことができました。今振り返ると、そうした朝にも、御霊が私を助け、とりなしてくださっていたのだと思います。

② 弱さを担い、とりなしてくださる御霊

26 節は、「御霊ご⾃⾝が、⾔いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなし
てくださいます」と語ります。⼤切なのは、御霊ご⾃⾝がとりなしてくださることです。

御霊は、祈る⾔葉が出てこない私たちと共にいて、その弱さを担い、助けてくださいます。何も⾔葉にできず、ただ⼼の中でうめくことしかできない時にも、御霊ご⾃⾝が、⾔いようもない深いうめきをもって、とりなしてくださるのです。私たちの祈りが⾔葉にならない時にも、御霊のとりなしは⽌まっていません。⾔葉にならなかった思いも、神の御前で失われることはないのです。

27 節には、神は私たちの⼼をすべてご存じであり、御霊の思いもよく知っておられるとあります。私たちには、⾃分にとって何が本当に必要なのか、今願っていることがどのように聞かれるのが最善なのか分からない時があります。けれども、御霊は神の御⼼を知り、その御⼼に従ってとりなしてくださいます。私たちの祈りの確かさは、正しい⾔葉を選んで祈れることにあるのではありません。御霊が私たちのためにとりなしてくださることにあるのです。

③ すべてのことを働かせて益としてくださる神

28 節は、神がすべてのことを働かせて益としてくださると語ます。祈っていても状況が変わらず、この先どうなるのか⾒えない時があります。それでも神は、すべてのことを御⼿の中で働かせ、益としてくださるのです。

続く 29 節では、神が私たちを「御⼦のかたちと同じ姿に」してくださると語られています。ここでいう「益」とは、私たちの願いがそのままかなうことだけではありません。どのような歩みの中でも、神が私たちを⾒捨てず、主イエスに似た者へと整え、救いの完成へ導いてくださることです。

後になって、「あの時も主が⽀えてくださっていた」と気づくことがあります。⼀⽅、この地上では最後まで意味が分からないこともあるでしょう。それでも、神の働きは⽌まっていません。国府津キリスト教会のこれからの歩みにも、まだ⾒えていないことがあります。しかし、この教会も神のご計画の中にあります。神は⼀⼈ひとりを⽀え、すべてのことを働かせながら、これからの歩みを導いてくださいます。

祈れない時にも、御霊が助けてくださる。私たちは⼀⼈ではなく、弱いままで主の御前にとどまることができます。私たちの涙も、弱さも、⾔葉にならなかった祈りも、神の御⼿の中で無駄にされることはありません。この慰めと希望の御⾔葉に⽀えられながら、主を⾒上げて、ともに歩んでまいりましょう。
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国府津キリスト教会 牧師 清水良高

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