2026年7月19日『心を合わせて祈る教会』
使徒の働き1章12〜14節
暑い日が続く中、それぞれの場所から同じ礼拝堂に集い、ともに主を礼拝できることは、決して当たり前ではありません。ひまわりは、咲いている場所も大きさも違いますが、同じ光を受け、同じ方向を向いて立っています。私たちも、歩んできた道や置かれている状況は違っていても、ともに同じ主を仰ぎ、主の光を受けながら歩んでいます。
先週、使徒の働き2章から「共に祈り、共に生きる教会」という題で御言葉を語りました。礼拝後、ある姉妹が「共に生きるっていいですね」と声をかけてくださいました。私たちは一人で信仰生活を歩むのではなく、ともに生きる教会でありたいと願います。
そのような教会は、どこから始まるのでしょうか。使徒の働き2章には、聖霊に満たされた人々が御言葉を聞き、祈り、支え合って生きる姿があります。しかし、その前に彼らは屋上の間に集まり、心を合わせて祈っていました。共に生きる教会は、共に祈るところから始まったのです。
今日の御言葉から、三つのことに心を留めたいと思います。
第一に、彼らは主によって祈りに集められた群れでした。イエス様が天に上げられた後、弟子たちは「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」という主の言葉に従い、屋上の間に集まりました。そこには十一人の弟子だけでなく、婦人たち、イエスの母マリヤ、イエスの兄弟たちもいました。失敗を抱えたペテロ、疑いを経験したトマス、かつてイエス様を信じていなかった兄弟たち。立場も性格も歩みも違う人々が、主の御手によって同じ祈りの場へ集められたのです。
教会とは、同じような人々の集まりではありません。歩んできた道も、抱えているものも異なる者たちが、主によって呼び集められ、ともに主を仰ぐ群れです。祈りによって与えられる恵みは、願いへの答えだけではありません。答えが与えられる前から、すでに私たちはともに祈る仲間の中に置かれています。
今日ここに集っていることも偶然ではありません。私たちは、それぞれ異なる人生を歩み、異なる願いや重荷を携えてここに来ました。しかし、主が一人ひとりを覚え、礼拝と祈りの交わりへ導いてくださったのです。祈りの答えを待つその時にも、すでに私たちは一人ではありません。
第二に、彼らは同じ主を仰ぎ、心を合わせて祈る群れでした。14節には、「みな心を合わせ、祈りに専念していた」とあります。彼らは、ただ同じ部屋にいたのではなく、ともに主の前に心を向け、祈り続けました。心を合わせるとは、全員が何についても同じ考えになることではありません。違いを抱えたまま、ともに同じ主を仰ぎ、主の御心を求めることです。
国府津キリスト教会も、多くの信仰の先輩方の祈りによって支えられてきました。さまざまな時を通りながら祈りが献げられ、主がこの教会を守り、ここまで導いてくださいました。そして今も、主は私たちを、ともに祈る交わりの中に置いてくださっています。その恵みを感謝し、心を合わせて祈ってまいりましょう。
第三に、彼らは主の約束を信じて待ち望む群れでした。弟子たちは、聖霊が与えられると約束されていましたが、それがいつ、どのように実現するのかは知りませんでした。後から見れば、待ったのはおよそ十日間です。しかし彼らには、あと何日待てばよいか分かりませんでした。一日待っても何も起こらない。次の日にも目に見える変化はない。それでも彼らは、主の約束を信じて祈り続けました。
私たちにも、祈ってもすぐに答えが見えない時があります。しかし、目に見える変化がなくても、主が何もしておられないわけではありません。私も母の救いのために長い間祈りました。すぐに答えは見えませんでしたが、主は私の知らないところで母の心に働き、母は九十六歳で洗礼を受けました。待っていた年月は空白ではありませんでした。主が母を導き、私にも祈り続けることを教えてくださった時だったのです。
主の約束を信じて待つ時は、何も起こらない空白ではありません。主が私たちの信仰を支え、これから始まる御業にあずかる者として備えてくださる時です。
ひまわりがそれぞれの場所で同じ光を受けて立つように、私たちも、ともに同じ主を仰ぐことができます。主は私たちを一人のままにはなさらず、祈る交わりの中に置いてくださっています。
共に生きる教会は、共に祈るところから始まります。主が与えてくださった交わりを感謝し、主の約束を信じて、ともに祈ってまいりましょう。主は祈る私たちのただ中におられ、一人ひとりを支え、この教会をこれからも導いてくださいます。
国府津キリスト教会 牧師 清水良高


