8月第4週のメッセージ|礼拝・祈祷会

礼拝(要約)

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

ヨハネの福音書 13章34〜35節

 

2026年8月23日『互いに愛し合いなさい』ヨハネの福音書13章34〜35節

先日、教会の駅前看板の取り付けが行われました。私も作業に立ち会っていましたが、目の前がちょうどバス乗り場です。バスを待っている何人もの方がこちらを見ておられて、私は思わず手を振って挨拶をしました。中には、一度看板の前を通り過ぎてから、また戻ってきて、じっと見て行かれる方もいました。
皆さんで話し合い、力を合わせてできた看板です。一人でも多くの方が、この看板を見て教会に足を運び、イエス様の愛を知ることができるようにと祈りました。

先週、私たちは、御霊が私たちのうちに結んでくださる実について御言葉に聞きました。その最初に挙げられていた実が「愛」でした。御霊によって結ばれる愛の実は、私たちの心の中だけにとどまるものではありません。人との関係の中に現れていきます。
では、その愛に生きるとは、どのような歩みなのでしょうか。ヨハネの福音書13章34〜35節から、三つのことを心に留めたいと思います。

第一に、主の愛を受けることです。

ヨハネ13章1節には、「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」とあります。十字架を目前にしたイエス様は、夕食の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、たらいに水を入れて、弟子たちの足を一人ずつ洗われました。主であるイエス様が、弟子たちの前に身を低くして、その足を洗ってくださったのです。

そして34節で、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい」と語られます。愛するという戒めは旧約にもありました。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と語られています。では、何が新しいのでしょうか。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われました。

このあと、ペテロはイエス様を知らないと三度言ってしまいます。それでも、主は弟子たちを愛されました。弟子たちがどのような者であるかを知った上で、主は愛しておられたのです。私たちも、弱さを抱えながら主に愛されています。互いに愛し合う歩みは、まず、この主の愛を受けるところから始まります。

第二に、主の愛に生きることです。

イエス様は、「互いに愛し合いなさい」と語られ、さらに35節では、「もし互いの間に愛があるなら」と言われました。

私たちの間には、考え方や思いの違いがあります。傷つくこともあります。心に残っている感情もあるでしょう。そのような現実の中で、私たちは、主から受けた愛を互いの間に置いて歩んでいきます。

私の友人の証しで、印象深く心に残っているものがあります。その友人は、ある人との間に少し気まずさが残っていたそうです。自分の気持ちが全部整理できたわけでもありませんでした。それでも祈っている中で、その人に自分から声をかけました。

「お元気ですか。」

一言だけでした。でも、声をかけたのです。関係がその場ですべて変わったわけではありません。それでも、その友人は、自分の気持ちがすべて整うのを待つのではなく、その人との間に、主から受けた愛を置いて歩もうとしました。

「もし互いの間に愛があるなら。」

主の愛に生きるとは、主から受けた愛が、人との関係の中に現れていくことです。

第三に、愛が弟子のしるしとなることです。

イエス様は、「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」と語られました。

今、私たちの教会も、駅前看板やホームページなどを通して、地域に向かって新しい歩みを始めています。地域の方々に教会を知っていただく入口が、少しずつ広がっています。そして、その先で人々が目にするのは、私たちが互いに愛し合って歩む姿です。

「あの人たちは、イエス様の弟子なのだ。」

教会を知っていただく入口が広がる時だからこそ、私たちが大切にしたいのは、主に愛され、その愛によって互いに愛し合うことです。そのようにして、地域の方々にもイエス様の愛が伝わっていく教会でありたいと思います。

私たちには、まず愛してくださったイエス様がおられます。「わたしがあなたがたを愛したように」と、主は語ってくださいます。

ですから、主の愛を受け、その愛によって、互いを大切にし、支え合い、祈り合いながら歩んでまいりましょう。

「互いに愛し合いなさい。」

この主の戒めに、ともに応えてまいりましょう。

国府津キリスト教会 牧師 清水良高

祈祷会(要約)

2026年8月26日『主は私を知っておられる』 詩篇139篇1〜10節

1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
6 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
7 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
8 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
9 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
10 そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。

詩篇 139 篇 1〜10 節

 

詩篇139篇は、よく知られた詩篇です。今回あらためて読んで心に留まったのは、1節の「あなたは私を探り」という言葉でした。神は、私たち一人ひとりに深い関心を寄せてくださっています。そのことを受け取るとき、心に慰めと安心が与えられます。

① 主は私を探る

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。」主は、私たちの表面だけでなく、思いも歩みも知ってくださっています。4節には、「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」とあります。まだ言葉になっていない思いまで、主はご存じです。

祈りたいのに、言葉が出てこない時があります。自分でも考えがまとまらず、何をどう祈ればよいのか分からないこともあります。それでも主は、私たちの心の底を理解してくださっています。私自身も、思いを整理できない時に、祈りの中で、言葉にならない思いを主が理解してくださっていることを経験しました。私たちは、うまく祈れない時にも、安心して主の前に出ることができます。

② 主は私に御手を置かれる

5節には、「あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました」とあります。私たちを深く知っておられる主が、その御手を私たちの上に置いてくださっています。ここには大きな安心があります。ダビデはその恵みを、「あまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません」と、驚きと畏れをもって告白しました。

私たちを知っておられる主は、遠くから見ておられるのではありません。私たちを取り囲み、その御手を置いてくださるお方です。今どのような場所にいても、私たちは主の臨在の中に置かれています。主の御手の中にあることを覚えるとき、私たちは安心して今日を歩むことができます。

③ 主はどこでも共におられる

「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。」この御言葉を、自分自身の歩みにおいても、教会の歩みにおいても、大切に抱えて歩みたいと思います。

天に上っても、よみに床を設けても、海の果てに住んでも、「そこにあなたはおられます」。そして10節には、「そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます」とあります。口語訳では「あなたの右のみ手はわたしをささえられます」と訳されています。どこにいても、主は共におられ、御手をもって導き、支えてくださいます。

振り返ると、今この教会に牧師として導かれたことも、主が道を備え、ここまで導いてくださったのだと思います。私たちの先が見えない時にも、主はそこにおられます。
私たちには、私たちを深く知り、御手を置き、どこにいても共にいてくださる主がおられます。教会に集うことが難しい時にも、それぞれの生活の場所に主は共にいてくださいます。

「私がどこにいても、主はそこにおられる。」
この御言葉を心に留め、それぞれが今抱えている思いや重荷を主の御手に委ね、主の導きを信じて歩んでまいりましょう。

国府津キリスト教会 牧師 清水良高

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