9月第2週のメッセージ|礼拝・祈祷会

礼拝(要約)

「あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

イザヤ書46章4節

 

2026年9月13日
『主が背負ってくださる』
イザヤ書46章3〜4節

 

今日は敬老記念礼拝です。長い人生の中には、うれしい時も、苦しい時も、さまざまな歩みがあったことと思います。聖書は、その歩みを初めから終わりまで支えてくださる神様がおられると語っています。

イザヤ書46章が語られた時、イスラエルの民はバビロンの支配の中にありました。バビロンでは「ベル」と「ネボ」という偶像が拝まれ、人々はそれらが国を守り、力を与えてくれると信じていました。しかし、バビロンが敗れる時、その偶像は荷物となり、獣に載せられて運ばれていきます。

その一方で神様は、ご自分の民に「わたしに聞け」と呼びかけ、「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ」と語られます。偶像は自分では動けず、人に運んでもらうしかありません。しかし神様は、ご自分の民を、その始まりから担い、運んでこられました。

① 今日まで神様が背負ってくださった

神様は「わたしはそうしてきたのだ」と語られます。私たち一人ひとりの歩みを振り返っても、自分では気づかなかったところで神様に支えられ、守られ、今日ここまで運ばれてきたのではないでしょうか。

教会の玄関前には甘夏の木があります。この木は、以前この教会におられた牧師が植えられたものだと聞いています。私はこの木を見るたびに、この教会で長い間ささげられてきた祈りを思います。私が知らない時代にも、この場所で礼拝が守られ、祈りがささげられてきました。

そして今、この教会には、会堂に集う方も、なかなか来ることのできない方もおられます。お一人お一人に、それぞれの信仰の歩みがあります。今回、会堂に来ることの難しい兄弟姉妹を覚えて、祈りながらお手紙を書きました。会堂に来ることが難しい時にも、何らかの形で教会につながり、御言葉に触れていてほしい。そんな願いがあります。

これまでの歩みの中には、うれしかったことも、思うようにいかなかったことも、先が見えなかった時もあったかもしれません。それでも神様は、私たちの知らないところでも支え、守り、今日まで運んでくださいました。

「わたしはそうしてきたのだ。」

この御言葉は、私たち自身の歩みを振り返る時にも深く響きます。

② 今も神様が背負ってくださる

「あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」

私たちは年を重ね、身体も、環境も、できることも変わっていきます。けれども、私たちを背負ってくださる神様は変わりません。4節には「わたし」という言葉が何度も繰り返されています。私はこの御言葉を読んで、神様が私たちの人生を丸ごと引き受けてくださっているように感じました。

子どもの頃、父の背中につかまってプールの中を進んだことがあります。私は一生懸命足をばたばたさせ、自分で泳いでいるような気持ちになっていました。しかし、実際に私を支え、前へ運んでいたのは父でした。

私たちも自分の力で歩いているように思うことがあります。その私たちに神様は、今も「わたしは背負う」と語ってくださいます。神様は、私たちを造り、これまで担い、今も背負ってくださるお方です。

③ これからも神様が運んでくださる

「なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

これから先に何があるのか、私たちには分からないこともあります。しかし、これまで担ってくださった神様が、これからも私たちを運んでくださいます。

そして、この神様の救いは、イエス・キリストにおいて、さらに深く私たちに示されています。イザヤ53章4節には、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」とあります。イエス様は私たちの痛みを知ってくださるお方です。私たちのところまで来てくださり、私たちの苦しみを負い、そして何より、私たちの罪をその身に負って十字架に進んでくださいました。

私たちには、私たちの罪まで背負ってくださったイエス様がおられます。

今日まで、神様がここまで運んでくださいました。そして今も、これからも、イエス様が私たちを背負い、運んでくださいます。

「なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

この御言葉に支えられて、これからもイエス様とともに歩んでまいりましょう。

 

国府津キリスト教会 牧師 清水良高

 

祈祷会(要約)

「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。」

詩篇68篇19節

 

2028年9月16日
『重荷を担ってくださる主』
詩篇68篇19〜20節

詩篇68篇は、主がご自分の民とともに進み、敵に勝利し、民を導いてくださる姿を歌っています。1節には「神よ。立ち上がってください。神の敵は、散りうせよ。」とあり、これは民数記10章35節とほぼ同じ表現です。さらに18節には、主が敵に勝利し、シオンに上り、ご自分の民のただ中に住まわれる姿が描かれています。その壮大な賛美の中で、19節はこう語ります。

 

① 「ほむべきかな」

19節は、「ほむべきかな。」という賛美から始まります。詩人は、「日々、私たちのために、重荷をになわれる主」を見上げながら、「ほむべきかな。」と賛美しています。

68篇にはここまで、荒野を進み、民を導き、敵に勝利してこられた神の御業が歌われてきました。その神が今も、「日々、私たちのために」重荷を担ってくださる。

私たちにも、日々さまざまな重荷があります。家族のこと。病のこと。これからのこと。その重荷を抱えるただ中で、主を見上げる。「ほむべきかな。」と私たちも主を見上げることができます。なぜなら、「日々、私たちのために、重荷をになわれる主」がおられるからです。新共同訳では、「日々、わたしたちを担い」と訳されています。主は、重荷を抱えている私たち自身を、日々担ってくださいます。

 

② 「救いの神」

19節の後半には、「私たちの救いであられる神。」とあり、20節には「神は私たちにとって救いの神。」とあります。詩篇68篇の文脈では、敵や危機から民を救い出してくださる神です。荒野を導き、敵を退け、民を守ってこられた神。このお方こそ、「私たちの救いの神だ」と告白しています。

20節は、さらに「死」にまで踏み込みます。「死を免れるのは、私の主、神による。」「死を免れる」と訳されている言葉には、「出口」「逃れる道」という意味があります。救いの神とは、行き止まりに見えるところにも出口を持っておられる神です。

私にも、先が見えない時がありました。主を知る前、会社勤めをしていた頃、成果主義の中で、効率よく仕事をすること、人に認められること、出世することを目標として歩んでいました。そのうちに心も体もボロボロになり、先が見えない状態になりました。そのような時に、あるクリスチャンとの出会いを通して、私は主を知ることができました。先が見えなかった私を、主は救いへと導いてくださいました。

この救いは、死にまで及びます。イエス様は、私たちを救い、新しいいのちに生きる者とするために、十字架で私たちの罪を負ってくださいました。そして死からよみがえり、私たちに新しいいのちを与えてくださいます。

重荷を担ってくださる主が、今日も私たちの救いの神です。

それぞれが抱えていることを主の御手におゆだねして、今日も主を見上げて参りましょう。

国府津キリスト教会 牧師 清水良高

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