礼拝(要約)
「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」
コロサイの手紙2章6〜7節
2026年10月4日
『キリストに根ざして』
コロサイの手紙2章6〜7節
私たちは、信仰生活が長くなるほど、信仰について知っていることも、経験も増えてきます。しかし、ふと気がつくと、自分の経験や自分の力で歩んでいる時があります。そんな自分に、今日の御言葉が「彼にあって歩みなさい」と語りかけてきました。
コロサイの教会の人々は、すでに福音を聞き、キリストを信じて歩んでいました。しかし、その教会には、キリストだけでは足りないかのような、さまざまな教えが入り込もうとしていました。そこでパウロは、もう一度、キリストご自身に目を向けさせます。
① 主キリスト・イエスにあって歩む
パウロは、「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから」と語ります。「このように」ということばは、1章から語られてきたことを受けています。そこには、御子がどのようなお方であるかが力強く語られています。この御子を、彼らは受け入れたのです。
私たちが受け入れたのは、生きておられる主キリスト・イエスご自身です。ここで「主キリスト・イエス」と記されていることに、私は心が留まりました。キリストについて知る、というだけではありません。今も生きておられる主ご自身を受け入れ、このお方とともに歩んでいるのです。
「彼にあって歩みなさい。」
自分を振り返ると、いつの間にか「自分にあって」歩み、自分の考えや力に頼っていることがあります。そのような時、御言葉がもう一度「彼にあって歩みなさい」と語りかけ、主に心を向けさせてくださいます。
その御言葉が、私たちを生きておられる主との交わりへと導いてくださいます。
② キリストの中に根ざして生きる
教会の前にある甘夏の木について、ある方が「木の根は、目に見える枝葉よりも、はるかに広く地中に伸びている」と話してくださいました。根は目には見えませんが、土から水分や養分を受け取り、木全体を支えています。大切なのは、その根がどこにつながっているかです。
「キリストの中に根ざし。」
「根ざし」ということばには、私たちがすでにキリストの中に根づかされ、その状態が今も続いていることが表されています。
主が私をキリストの中に根づかせてくださった。そして今も、私はキリストの中に根づかされている。
その恵みを覚えます。
根が土から水分や養分を受け取るように、私たちもキリストから、御言葉、力、慰め、支え、そして日々を生きるために必要なものを受け取ります。「キリストの中に根ざす」とは、生きておられる主との交わりの中で、主に養われながら生きることです。
③ キリストによって建てられる
「また建てられ」「信仰を堅くし」ということばには、私たちが主によって今も建て上げられ、信仰を堅くされていることが表されています。
主の働きは、今も続いています。
私自身、会社員時代、毎朝、教会で祈り、御言葉を聞き、賛美してから仕事へ向かっていました。それは「教会に行かなければならない」という思いからではなく、鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、ただ主を求めていたからでした。
主の前に静まりたい。御言葉をいただきたい。主と交わりたい。そのような飢え渇きがありました。その時には気づいていませんでしたが、生きておられる主が、日々の歩みの中で私の信仰を支えてくださっていたのです。そのことを思う時、「主よ、ありがとうございます」という感謝が心に浮かびます。
私たちが根ざしているキリストの中には、満ち満ちた恵みがあります。その恵みが私たちの歩みを支え、建て上げ、感謝へと導いてくださいます。
このキリストの恵みを受け取り、今週も主にあって歩んでまいりましょう。
国府津キリスト教会 牧師 清水良高
祈祷会(要約)
「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」
エレミヤ書15章16節
2026年10月7日
『みことばをいただく』
エレミヤ書15章16節
預言者エレミヤは、主から与えられた御言葉を人々に語る中で、反発を受け、苦しみの中にいました。そのような時に、彼は「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました」と告白しました。
① 御言葉を与えられる
「私はあなたのみことばを見つけ出し」とあります。エレミヤが最初に主から召された時、主はこう語られました。
「そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。『今、わたしのことばをあなたの口に授けた。』」(1:9)
エレミヤが「見つけ出した」ものは、主から授けられたことばでした。
エレミヤに御言葉を授けた主は、今も聖書の御言葉を通して私たちに語ってくださいます。
以前、会社で働いていた頃、人との関わりの中で気持ちが沈み、そのことがなかなか頭から離れない時がありました。そんな中で聖書を開いていると、この御言葉に出会いました。何度も御言葉を読んでいるうちに、「ああ、これは今の私に語られている御言葉だ」と分かりました。人の言葉ではなく、主のことばを受け取りなさいと、主が語ってくださっているように感じ、この御言葉を自分へのことばとして受け取っていきました。
② 御言葉を食べる
「御言葉を食べる」とは、ただ聖書を読むだけではなく、御言葉を自分の内にいただき、味わい、自分へのことばとして受け取ることだと思います。そして、生きた御言葉は、私たちの内に働き、私たちを生かし、主の御心へと整え、導いてくださいます。
また、19節に「もし、あなたが帰って来るなら」とあります。このことばにも、私の心が留まりました。
それまで「主から離れた人が悔い改めて帰る」ことばとして読んでいたこの御言葉が、その時は自分に語られているように思えました。そして、この御言葉によって、人の言葉に心を戻し続けるのではなく、もう一度主のもとへ帰り、主の前に立つように導かれたのです。
さらに20節にこうあります。「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。」
この御言葉も、私自身への語りかけとして受け取りました。主はともにいてくださり、私を立たせてくださいます。
③ 御言葉が喜びとなる
エレミヤの置かれていた状況そのものは、決して楽しいものではありませんでした。それでも彼は、主の御言葉が「心の喜びとなりました」と語っています。
続いて、エレミヤは、「私にはあなたの名がつけられているからです」と語っています。
エレミヤには、主との生きたつながりがありました。だからこそ、主から語られた言葉は、ただの言葉ではなく、自分に語られる生きた言葉となり、心の喜びとなったのではないでしょうか。
私たちはクリスチャンと呼ばれ、キリストに属する者とされています。主を信じ、主とともに歩む私たちには、主との生きたつながりがあります。
生きておられる主が、今も御言葉を通して私たちに語ってくださいます。
今週も、主から御言葉をいただき、共に歩んでまいりましょう。
国府津キリスト教会 牧師 清水良高


