2026年8月9日『一つのからだ』コリント人への手紙第一12章12〜27節
昨日の午後、国府津海岸まで行って海を見てきました。浜で波を眺めていると、小さく静かに寄せてくる波もあれば、沖からうねりながら大きくなり、足元まで届く波もあります。しばらく見ていると、繰り返し寄せる波も、一つ一つ表情が違います。私たちも同じように、歩んできた人生も、性格も、得意なことも、一人ひとり違います。しかし今日の御言葉は、その違う一人ひとりを、神様が「一つのからだ」としてくださっていることを教えています。
第一に、「一つの御霊によって」ということです。パウロは、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、「一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受けた」と語ります。背景も立場も違う人々を、同じ聖霊様が一つのキリストのからだへと結び合わせてくださいました。教会にはさまざまな賜物や働きがありますが、それを与えてくださる御霊は同じです。そして、その同じ聖霊様が、今日ここにいる私たちにも働いてくださっています。私たちは、一つの御霊によって、キリストのからだとして結び合わされているのです。
第二に、「なくてはならない」ということです。足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言い、耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言います。自分とほかの器官を比べているのです。しかし、全部が同じ器官なら、からだとして働くことはできません。違う器官があるからこそ、一つのからだとして成り立っています。そして神は、みこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださいました。ですから、目が手に向かって「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。その一つ一つを、神ご自身が備えてくださっているからです。
そしてパウロは、「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならない」と語ります。私は以前、指をけがして神経を切ったことがありました。その時、けがをして初めて、その指を普段どれほど使っていたのかに気づかされました。小さく見える部分でも、からだにとって大切な働きをしています。
私は、「弱いと見られる器官が、かえってなくてはならない」という御言葉に、とても慰められました。私たちは、その人が何ができるか、どれほど力があるかということを見てしまいやすいものです。私自身も、その人が何ができるかということばかり見てしまって、その人をここに備えてくださった主に目を向けることを忘れてしまうことがあります。
しかし神は、人の目には弱く見える器官を、「なくてはならない」と言ってくださいます。さらに24節では、神は劣ったところをことさらに尊び、からだを調和させてくださると語られています。私たちがどう見るかにかかわらず、神はその一人ひとりを備え、尊んでくださっています。教会の一人ひとりは、神がみこころに従って備えてくださった、なくてはならない存在なのです。
第三に、「互いにいたわり合う」ということです。神が一人ひとりを備えてくださったのは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。私たちは皆、時には支え、時には支えられながら、互いを必要として歩む者とされています。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜びます。教会は、一人の苦しみに共に心を寄せ、一人の喜びを共に喜ぶところです。
パウロは最後に、「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」と語ります。神が備えてくださった一人ひとりが共にいて、私たちはキリストのからだとされています。これから教会が歩んでいく時にも、この御言葉を心に留めたいと思います。神が備えてくださった一人ひとりを大切にし、苦しみを共にし、喜びを共にしながら歩んでいく。そのような一つのキリストのからだとして、主がこれからも私たちを建て上げてくださいます。
私たちは、一つの御霊によって、一つのキリストのからだとされています。そして、神がみこころに従って備えてくださった一人ひとりは、キリストのからだに、なくてはならない存在です。ですから、神が備えてくださった一人ひとりを必要とし、互いにいたわり合いながら、共に歩んでまいりましょう。私たちは、一つの御霊によって結ばれた、一つのキリストのからだです。
この御言葉に慰められ、主が備えてくださった互いを大切にしながら、今週も共に歩んでまいりたいと思います。
国府津キリスト教会 牧師 清水良高


